凌霜第426号 2020年06月26日

426号_表紙_六甲あじさいロード・鉢巻展望台.jpg

凌霜四二六号目次

 

表紙写真 昭50経 村 田 克 明

カット 昭34経 松 村 琭 郎

 

◆巻頭エッセー 第二のキャリアを求めて   高 岡 浩 三

目 次

◆母校通信   品 田   裕

 学長メッセージ   武 田   廣

◆六甲台だより   行 澤 一 人

◆本部事務局だより   一般社団法人凌霜会事務局

 通常理事会で令和2年度事業計画及び予算など可決/

 5月度通常理事会・6月代議員総会について/令和2年度会費納入の

 お願いと終身会費などのお知らせ/会費の口座引落しへの変更のお願い/

 ご芳志寄附者ご芳名とお願い/事務局への寄附者ご芳名/

 令和2年度春の叙勲受章者/令和2年度代議員名簿

◆新型コロナを転機に~若手卒業生による学生支援の新しいかたち

 ―凌霜会会員増強実行委員会からの報告―   廣 岡 大 亮

◆(公財)六甲台後援会だより(61)   (公財)神戸大学六甲台後援会事務局

◆大学文書史料室から(35)   野 邑 理栄子

◆神戸高等商業學校同窓會報について   一 木   仁

◆学園の窓

 研究科長着任早々「コロナ禍」に見舞われて   南   知惠子

 家計経済学と私   ホリオカ チャールズ・ユウジ

 十九世紀という「時代」   重 富 公 生

◆凌霜ゼミナール 小惑星リュウグウ上に人工クレーターを作る   荒 川 政 彦

◆六甲余滴 「心の交流」で海外での危機を乗り越える   髙 木 純 夫

◆神戸大学統合報告書~神戸から世界へ 過去から未来へ~   古川昌紀・玉城央也

◆六甲台就職相談センターNOW 正解のない世界   浅 田 恭 正

◆学生の活動から

 六甲台就職相談センター アシスタントの経験を通して   中 村 成 吾

 六甲台就職相談センターでの学び   北 川 理沙子

 六甲台就職相談センターでのアシスタントを通じて   明 田 直 樹

◆表紙のことば 六甲あじさいロード・鉢巻展望台   村 田 克 明

◆クラス大会ご案内 珊瑚会

◆クラス会 三四会、むしの会、一八会

◆支部通信 富山、大阪

◆つどい 丸紅株式会社凌霜会、大阪凌霜俳句会、凌霜川柳クラブ

     神戸大学ニュースネット委員会OB会

◆ゴルフ会 花屋敷KUC会、芦屋凌霜KUC会、廣野如水凌霜会

◆追悼 市山 哲君(昭35営)を偲んで   徳 田 浩 次

    肥後浩平さん(昭36営)   土 橋 芳 邦

◆物故会員

◆国内支部連絡先

◆編集後記   行 澤 一 人

◆投稿規定

第二のキャリアを求めて

 

昭58営 高  岡  浩  三

 

(ケイアンドカンパニー㈱代表取締役)

 

 令和2(2020)年3月末をもって、37年間のネスレでのサラリーマン生活に終止符を打った。10年間ネスレ日本の社長を務めさせて頂いたが、増収増益を達成し続けて後任を自身が育てた日本人に引き継ぐことが出来たのは最高の花道だったと感慨深い。

 5年ほど前から、還暦を機にまだやる気のあるうちに第二のキャリアをと準備してきた。スイス本社からはあと5年と慰留されたが、65歳から第二のキャリアにチャレンジする気概があるかどうか、正直自信がなかった。

 デジタルトランスフォーメーション(DX)を中心とした、個人コンサルタントとしてケイアンドカンパニー株式会社を設立したのは2年前だった(ネスレ日本は副業可)。私が第二のキャリアを決めた理由は、失われた平成の30年間、世界最大の外資系食品企業で働きながら、日本経済と日本企業を外資の目から見てきた経験からだろう。

 私が神戸大学経営学部を卒業してネスレに入社したのは昭和58(1983)年。日本経済がバブル期に入ろうとしていた頃。もちろん日本も先進国の仲間入りを果たそうと日本経済そのものが絶好調だった。それから10年後にバブル経済が崩壊して失われた30年を迎えることになろうとは、誰が予想出来ただろうか? ちょうどこの頃、インターネット・プロトコル・スィート(TCP/IP)が標準化され、TCP/IPを採用したネットワーク群を世界規模で相互接続するインターネットという概念が提唱された。第三次産業革命の静かなる幕開けだった。

 マーケティングの世界的権威であるシカゴ大学ケロッグ経営大学院のフィリップ・コトラー教授から、「なぜ戦後日本が急速に経済復興を成し遂げ、半世紀後には世界第二位の経済大国にまで成長したにもかかわらず、バブル崩壊後先進国の中でも最も低成長で喘いでいるのか」と問われたのが10年前だった。この問いかけは、私自身がネスレ日本をCEOとして率いるのに良い準備運動となった。

 私が考えた戦後の日本の経済成長モデルは、名付けて「ニッポン株式会社モデル」。それは以下の4大要素が相まって為し得たものだと結論づけた。

①メインバンクシステム

②年平均100万人の人口増加

③安い労働力コスト

④世界最高レベルの労働力の質

 戦後、敗戦後の日本は欧米の資本主義を導入して経済復興を試みる。敗戦国かつ新興国の日本は当時貧乏のドン底。株式会社を設立しようにも投資家がいない。だから通常は外資系を呼び込むしかない。しかし、時の政府と有識者はそれを良しとしなかった。そこで考えられたのがメインバンクシステム。日本に金を持つ投資家がいないから、全国各地の銀行に投資家としての役割を持たせて会社設立に貢献させた。大株主の銀行は、企業の成長を最優先する事で将来の投資価値を高めようと配当を要求せず、オペレーションに必要な短期借入の利息を糧に日本経済の成長を後押しした。これが、いかなる産業における日本企業も売上至上主義が蔓延り、欧米企業に比較して利益率が圧倒的に低い所以だ。

 1945年の終戦時の日本の人口は7,500万人。バブル期には1億2,500万人と半世紀で5,000万人も増加した。年間100万人の人口が増えて若い労働力が豊富だった新興国時代。しかも、当時の日本人の賃金は欧米諸国よりはるかに低かった上に、教育を強化したことで当時の日本人の識字率は高く、また日本人の真面目さと週休1日で残業もいとわない勤勉さが相まった高い労働力の質により、「より良い品質の商品をより安く」供給することは容易かった。まさしく、これらの4大要素が「ニッポン株式会社モデル」の成長エンジンとなって戦後の高度成長期を支えてきたと言える。私は、ネスレも含めた世界的な多国籍企業が日本においてのみ成功してこなかった理由が、この「ニッポン株式会社モデル」にあると確信した。最低10%以上の利益率を株主から求められる欧米の大企業は、品質の良い商品を安く供給しつつ低利益の許される日本企業に勝ち目は無かったからだ。

 新興国時代の鎖国的経済成長を果たすには恰好の「ニッポン株式会社モデル」にも、当然ながら弱点があった。それは、ガバナンスとプロ経営者が育ちにくい自前主義である。メインバンクシステムによる銀行の資本支配により、日本では長年株主総会が形骸化されてきた。株主総会の最大の役割は経営者の監視。株主の期待に応える業績をあげられない経営者は、株主総会にて退任を余儀なくされるが、「日本株式会社モデル」ではその機能は全く発揮されない。今、ようやくガバナンス・コードが制定されたところだが、日本企業の取締役制度も私から見れば小学生並み。未だ社外取締役が過半数に満たないのが殆どだからだ。欧米の大企業では、代表取締役会長と社長以外は全員社外取締役だ。

 また、新興国時代の「ニッポン株式会社モデル」で4大要素が継続していた時代は、語弊があるが敢えて言うと、よほどヘマをしない限り誰が社長をしても売上を伸ばせた時代。だから、社長の任期なるものが誕生したと推察される。他の資本主義先進国において、社内規定による社長の任期が決められている国を私は知らない。少なくとも2期4年とか3期6年という短期間での任期は日本だけだろう。誰でもやれたから一人が10年もやれば不公平だったのだろうか?霞が関の官僚と同じで、同期で出世頭の事務次官の任期が基本1年というのに似ている。それが証拠に、戦後間もない頃から企業家精神を発揮して成功を成した有名な経営者、ソニーの盛田氏、パナソニックの松下氏、ホンダの本田宗一郎氏らは、歴史にその名前を今も残されているが、その後を引き継いだサラリーマン経営者の名はなかなか出てこない。4年から6年くらいでは、大きな変革や偉業を成し遂げるにはあまりに短かすぎるからだ。

 私は、バブルが弾けてからの平成の失われた30年は、戦後の日本経済史の中で最も暗い時代ではなかったかと思う。1980年代に産声を上げたインターネットによる第三次産業革命に全く乗り遅れてしまったからだ。その根本的原因こそが、「ニッポン株式会社モデル」から脱却出来ない、すなわち新興国モデルから脱却出来なかった30年だったと考えている。バブル期に先進国の仲間入りを果たし、賃金も欧米諸国に追いついたことで労働力コストの競争力を失った。更には人口減少と高齢化。世界第二の経済大国になった日本は過去の成功体験にあぐらをかき、インターネットによる第三次産業革命に完全に乗り遅れてしまった。それを果たしたアメリカと中国が圧倒的経済力を持ち、日本はヨーロッパ先進国並みの経済に縮小していくのだろうか?

 日本と同じように資源も持たず、人口も少ないネスレ本社があるスイスは、国民一人当たりのGDPがルクセンブルクに次いで世界第2位だ。しかも、世界最大の多国籍企業があらゆる産業にまたがり10以上もある。日本がスイスから学ぶべきことは多い。

 そんな日本で外資系食品メーカーであるネスレ日本のCEOとして、私はデジタルトランスフォーメーション(DX)により売上と利益を伸ばしてきた。今ではeコマースの売上比率が20%。しかもamazonや楽天に頼らず自前のブランド・ドットコムによるのは、ネスカフェ・アンバサダーを成功させたからに他ならない。また、いち早くホワイトカラーイグゼンプションを労働組合の承認を得て導入し、リモートワークも当たり前にした。ITを駆使すれば当たり前の話だが、私に言わせれば働き方改革も人事のデジタルトランスフォーメーションだ。

 失われた30年の後、令和の時代はまさにデジタルトランスフォーメーション(DX)の時代。定年を機に、個人会社で日本企業のデジタルトランスフォーメーション(DX)を支援しようと考えたのは、そんな日本経済の現状分析からだ。退任発表から1カ月というのに、18社からクライアントオファーを頂戴したのは嬉しい誤算だ。様々なデジタルマーケティング会社やネットのスタートアップ企業とのネットワークを駆使して、日本企業のDXによるモデル変換にお役に立てればと考えている。

 新野先生からも励ましのお手紙を頂戴した。「旧帝大と違った生き方を要請されている神戸大学のためにも」と、私のような外資系上がりの変わり者にも、いつも温かいお言葉をかけ続けてくださる。言いたい放題の後輩ではあるが、先輩諸氏の叱咤激励を受けながら旧帝大、神大卒らしくない新しいキャリアに邁進したい。