凌霜第390号 2011年07月31日

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凌霜三九〇号目次
◆巻頭エッセー 神戸発 神戸大学、そして大震災    高 士   薫
◆母校通信                            田 中 康 秀
◆六甲台だより                          吉 井 昌 彦
◆理事長からのメッセージ12
 「新しい凌霜会への歩み(その6)」             高 﨑 正 弘
◆学園の窓
 EUインスティテュート関西の活動              吉 井 昌 彦
 雑感――ベルリンでの子育てを経験して           安 井 宏 樹
 縁 の 糸                            毛 利 忠 敦
 「ワークとライフのバランス」                  髙 田 知 実
◆凌霜俳壇  凌霜歌壇
◆六甲余滴 イスラム世界は、なぜ未だ開発途上なのか
      ―イスラムの慢心とヨーロッパの資本主義化―    絹 巻 康 史
◆ベルカン・ノート 平成22年度 経済・経営・法学部謝恩会 隅 野 康 太
◆「比較経済体制学会第51回全国大会」            吉 井 昌 彦
◆Global Business Case Competition 2011           小 松 昇 平
◆2011年度PhD-Café新入生歓迎会              碇   邦 生
◆「ピーター・ドラッカー経営学博士と平井泰太郎教授」     亀 田 訓 生
◆賀川浩さん日本サッカー殿堂入り                長 木 義 明
 サッカー部監督時代の賀川浩さん                青 山   隆
◆写真への思い             白 羽 三 雄
◆表紙のことば 修復成った六甲台図書館の壁画        稲 葉 洋 子
◆リレー・随想ひろば
 緊急通報システム                         麹 谷 省 三
 私の“ほっとスポット”                        鈴 木 弘 成
 山に学ぶ                               小 川 和 英
 神戸大学の思い出                         齋 藤 雅 士
 ゼミの同窓会                            田 中 義 久
◆本と凌霜人
 新版『語り継ぎたい。命の尊さ~
       阪神淡路大震災ノート』                栃 谷 亜紀子
 「我れ百倍働けど悔いなし」                   髙 井 浩 一

<抜粋記事>
◆巻頭エッセー
神戸発 神戸大学、そして大震災
      昭50法 高(たか)  士(し)     薫
            (株式会社神戸新聞社代表取締役社長)
 大学入学の春から神戸に暮らして、ちょうど40年になる。大阪に生まれ育ち、転勤といっても兵庫県内だけ。まさに「阪神」で完結する、超ドメスティックな土着人生を歩んできた。
 神戸新聞は創刊113年を迎えた兵庫の県紙であり、ありがたいことに、新聞離れが言われる今も、県内で最大の販売部数を持たせていただいている。創刊は明治31(1898)年だから、足掛け3世紀にわたって新聞発行を続けていることになる。ビジネスモデルが時代遅れになるのも当然といえば当然のことで、新聞各社とともに今、時代に対応して生まれ変わるべく、虎戦士のヒーローインタビュー風にいえば、「必死のパッチ」である。
 社長になってまだ1年半に過ぎないが、その短い間にも、母校との関係は著しく深まった。凌霜会からは現役学生向けの講師役を仰せつかり、経済学研究科からはアドバイザリーボードの委員にと、お誘いをいただいた。神戸大出身の各界の方々との交流も深まりつつある。
 こうして再び母校を意識するうちに、ともに神戸に根差す大学と新聞社が、同じ空気と土壌の中で育ってきたことに、あらためて気づくのだった。
 明治の昔、高等商業学校が東京に次いで神戸に開設され、ロータリークラブが東京、大阪に次いでまず神戸で発足したのも、すべては当時、このまちが持っていた経済力と可能性のなせる業だった。神戸の鈴木商店は一時期、三井、三菱をしのぐわが国最大の商社だった。そこから神戸製鋼所や帝人、播磨造船所(石川島と合併し、現在IHI)、日商などが産声をあげた。のちの川崎重工、川崎製鉄(現JFE)を生み出した川崎造船所も、神戸経済を黎明期から照らしてきた。
 神戸高商はそうした経済界の要望を受けて明治35(1902)年に開設され、卒業生は、期待に応えて各社をけん引したのである。先立つこと4年前、川崎造船所の初代社主・川崎正蔵、初代社長・松方幸次郎の創業コンビが、やはり初代社主、社長に就いて創刊したのが神戸新聞だった。近代日本の先頭を神戸が疾駆し始めたとき、神戸大学と神戸新聞は相前後して登場した。
 大正から昭和にかけ、恐慌などの嵐に見舞われながらも、神戸は戦前の全盛期を迎える。関係者の運動が実って神戸高商が神戸商業大学へと昇格したのは昭和4年だが、その翌年に神戸新聞社は、今の京都新聞の前身にあたる京都日日と大阪時事新報の両紙を買収し、昭和6年に「三都合同新聞社」を設立。各紙の題字はそのままに、1社で関西を包含する3紙を発行する体制を樹立したのだった。喜劇王チャップリンが神戸の港を訪れた時代だ。三都合同新聞社は大阪での業績不振から数年で解散したが、関東大震災後に関西に訪れた大活況期を背景に、神戸のまちがすこぶる元気だった時代のエピソードである。
 戦後になって神戸新聞社は、昭和23年に西日本で初のスポーツ紙「デイリースポーツ」を創刊。7年後の同30年には東京進出を果たして全国発行体制を整えた。神戸経済大学と改称していた本学は、同24年に新制神戸大学となって総合大学としての発展を始めている。
 いささか歴史に深入りしすぎた。土地に根差した大学そして新聞社として、両者の歩みに神戸の近現代史が色濃くにじんでいることは、これも当然といえば当然のことなのだろう。このたびの東日本大震災で「神戸」が持った特異な立場でもまた、同じことが言えるように思う。
 政府の復興構想会議は議長に五百旗頭真・名誉教授をいただいているし、委員の河田惠昭・関西大学社会安全学部長と検討部会長の飯尾潤・政策研究大学院大学教授には、神戸出身、あるいは神戸で人と防災未来センター長を務めておられるよしみで、それぞれに神戸新聞の客員論説委員として健筆を振るってもらった時期がある。阪神・淡路大震災の経験が、復興構想会議を神戸の色に染めたのである。官僚抜きなど政権が用意した土俵に縛られるため、ご苦労は並大抵ではなかろうが、被災地と日本の将来のため、皆さんには、大いに真価を発揮してもらいたいと願ってやまない。拙文が掲載されるころ、構想会議の提言は、きっと被災地のあすを照らし出す灯となっていることだろう。
 神戸大学は都市安全研究センターの研究者らが東日本大震災研究を本格化させておられるし、神戸新聞も仙台に臨時支局を開設し、記者たちが臨海部に入って取材を続けている。現地の河北新報には神戸が発信する応援メッセージや提言が載り、神戸新聞には「東北から」として被災地の人々の声が掲載されている。長く友好紙の関係にある両紙は、16年前と今の被災者をつないでいる。そして腕章に「神戸」の2文字があると、被災者の皆さんの方から声をかけてくれることが多いという。大学も行政も新聞社も、その点では同じだろう。神戸が持つ阪神・淡路大震災という共通体験が、16年の時を経て再び強く意識された数カ月だった。
 さて、話を移す。いきなり個人的になってしまうが、私にとっての神戸大学だ。
 恩師は、昭和46年の私の入学当時、東欧問題で論陣を張る新進気鋭の学者でいらっしゃった法学部の木戸蓊教授である。歴史の浅いゼミはまだ定員を満たしたことがなく、法律の勉強に熱意を持てないでいた与太郎学生にとって、木戸ゼミはセーフティーネットにも似たありがたい存在だった。酔えば神大の高倉健を自称した先生は、人肌の温かさを持っていた新開地のまちを好み、小屋の楽屋に花束を届けた話などをよくしてくださった。何の小屋かは明かさないでおこう。先生とは卒業後も毎年のように飲んだ。崖の斜面をはう学生会館で時間の大半を過ごした私にとって、神大といえば、木戸先生だった。ゼミで出会う指導教官はそれほど重い。先生は退官後ほどなくして早世されたため、いったん、大学との縁は切れた、ように思った。
 糸は再び手繰り寄せられる。野上智行前学長には、兵庫県NIE推進協議会などを通じてお世話になった。私の社会部長、編集局長時代にあたる。前後して新野幸次郎先生に目をかけていただくようになり、社長になった今、福田秀樹学長とは折々にお目にかかる。
 六甲台の3学部に限らず、同窓の縁とはまことにありがたいものだ。川重会長で神戸商工会議所会頭の大橋忠晴さん、阪神電鉄会長でタイガースのオーナー坂井信也さん、みなと銀行頭取の尾野俊二さん、バンドー化学社長の谷和義さんら、神戸に軸足を置いて活動しておられる皆さんとは、懇意にしていただいている。ネスレ日本の社長兼CEOに就かれた高岡浩三さんもいらっしゃる。神戸大出身の社長は今、地元神戸で増えつつある。
 大阪にはレンゴーの大坪清社長はじめ多くの同窓がおられるし、東京に行けばまた多士済々だ。明治安田生命の松尾憲治社長には、わざわざ弊社を訪ねていただいたことがある。経済界のみならず、政治、行政と、地元メディアの利を生かして「神戸組」のお付き合いを広げ、かつ深めたいと願っている。
 世界に目を向け、グローバルに動こうとすればするほど、神大もまた、しっかり地域に根を張った地元大学でなければならない。「神戸」への誇りと愛着を、色あせさせることなく、ともに再生産していきたいと思う。
筆者略歴
 1952年生まれ、大阪市出身。75年、神戸大学法学部卒。同年、神戸新聞社入社。地方勤務を経て、社会部で兵庫県警、神戸市政、兵庫県政などを担当。その後、社会部長、編集局長、取締役編集論説担当、取締役広告担当などを歴任。2010年2月から現職。

◆理事長からのメッセージ 12
「新しい凌霜会への歩み(その6)」
             社団法人凌霜会理事長 高 﨑 正 弘
 東日本大震災発生から早くも約4カ月が経過しましたが、被災地の明るいニュースは未だ少なく、この会誌が皆さまのお手元に届く8月上旬頃には、諸々の復旧・復興対策が着実に、目に見える形で進んでいることを切に願うのみであります。

 役員会・評議員会・会員総会を終えて
 さて、去る5月27日、役員会・評議員会・会員総会が開催され、平成22年度事業報告書、同貸借対照表などの決算書類、平成23年度事業計画、同収支計画書などが承認されました。同時に、凌霜会の当面の最大課題であります一般社団法人への移行認可申請に必要な定款変更の案及び諸規定と併せて、長年に亘り公益法人として凌霜会が蓄積してきた剰余金(法的には「公益目的財産額」と称し、平成24年3月末の見込み額は約4千万円)を、移行後1年以内を目途に、公益財団法人神戸大学六甲台後援会(以下「六甲台後援会」という)に寄付することも、特別決議をもって承認されました。
 この寄付の受け入れに関しては、凌霜会の移行認可取得を停止条件として、六甲台後援会の理事会において承認され、また、今まで凌霜会が実施してきた公益目的事業の一部を、同後援会が引き受けることも了承されました。同窓会事業は凌霜会、公益目的事業は六甲台後援会と役割分担を明確にし、同窓会事業の深化と公益目的事業の拡大を、お互いに協力しながら進めていく態勢を確立したところであります。言うまでもなく、社団法人である凌霜会は会員(人)が、財団法人である六甲台後援会は資産(財産)が、その拠って立つ基盤であります。それぞれの特徴を活かし、お互いに補完しながら、その使命を果たして参りたいと考えています。
 今回ご承認いただいた定款変更の案では、正会員を選挙人として、概ね正会員100名に1名の割合で選出される「代議員」が法律上の「社員」として位置づけられており、この代議員で構成する代議員会が、理事及び監事の選任・解任、予算・決算の承認など、重要事項の決議機関として、その役割を担っていくことになります。
 なお、この定款では、法の趣旨に沿って会員に会費納入を義務づけており、会費を納入していただいている最近時点の正会員をベースに計算しますと、代議員数は80名前後になる見込みであります。また、現在在学中の準会員の皆さんは、従来同様、卒業と同時に正会員に移行し、代議員選挙での投票権を得るとともに、代議員に立候補することが出来るようになります。
 新法人への移行は、来年3月31日の現凌霜会の解散、翌4月1日の「一般社団法人凌霜会」の設立登記によって完結することを目指しています。これを実現するには、内閣府の移行認可取得が絶対必要条件であることは言うまでもありませんが、加えて、4月1日付の登記には「約2週間前の3月20日前後に移行認可を取得する必要がある」という選択幅の極めて狭い課題をクリアしなければなりません。幸い、内閣府において「移行認可日の要望を受け付ける」という弾力的な対応をしていただけることになりましたので、計画的に諸準備を進め、余裕をみて申請に臨む所存です。また、来年の4月1日は日曜日で、登記を2日(月)に延ばすことになれば、法の規定に従い、365分の1日の決算事務を別途要するなど煩雑な処理が懸念されるところでありますが、この点につきましても、当局の方で、4月1日の休日登記が可能となるようご配慮いただけることになりました。
 一方、我々には、「正会員による公正な代議員選挙」、「代議員会による適正な役員選任」、「理事本人の理事会への出席」、「監事の独立性担保」、「健全な期間収支」など、これらを一体とした運営により、法改正の根底にある「法人のガバナンスの強化」を実現することが義務づけられています。このような法の趣旨に照らして、新しい凌霜会の理事数は10~15名、監事数2~5名と現状より縮減し、理事会への出席率の確保と、その実効性を高めることとしました。
 前記5月27日の総会終了時点の理事・監事のうち、新法人の定款の附則にその名を記載することを承認された理事15名・監事3名は、来年4月1日の一般社団法人凌霜会のスタートと同時にその役職に就くことになります。一方、その他の理事・監事の方々は、来年3月31日の現凌霜会の解散をもって辞任していただくことになります。新たに導入する代議員制についても、今秋の認可申請までに、先の総会で承認された「定款変更の案」及び「代議員選挙規則」に基づく代議員選挙を行い、選出された代議員の氏名を定款の附則に記載することにより、新法人移行と同時に「代議員制」が機能することになります。
 この代議員選挙に関しましては、候補者を選ぶ「代議員候補者選考委員会」、選挙の開票事務及び当選人の決定の事務を行う「選挙会」、それを監視する「選挙立会人」などを立ち上げ、その公正な実施を担保して参ります。選挙の手法は、正会員の皆さま全員による「候補者」の信任投票の形式を予定していますので、選挙人の皆さまは選挙期間の初日の前日までにお手元に送られる資料をご熟読いただき、適確な対応をよろしくお願い申し上げます。なお、候補者数が自薦、他薦を含めて定員内であった場合には、代議員選挙規則により全候補者が信任され全員当選となりますので、投票を省略することになります。
 更に きめ細かい施策を
 ところで、前号でもご紹介しましたとおり、公益法人の立場で積み上げてきた剰余金は新法人の主たる業務である同窓会事業に使用することは出来ず、凌霜会は六甲台後援会に寄付する道を選択いたしましたが、健全で活発な同窓会事業の展開には、会費収益が非課税となる税法上の「非営利型法人」の認定と、併せて、毎年度の収支の安定、それを支える会費収入の増加が不可欠であり、そのためには、移行事務を法に則り的確に処理することは当然として、会員の皆さんとの絆の一層の強化がポイントになります。
 幅広い、魅力ある施策の展開が我々に課せられた使命だと肝に銘じておりますが、なかでも、制度導入後10年目を迎えた準会員の皆さん向けの施策の拡充と、ホームカミングデイなどを活かした年次別同窓会開催のお手伝いに、意を用いて参ります。特に、準会員の皆さん向けでは、「ベルカン」諸君のご協力を得て既に実施している準会員向け会誌スペースの拡充、先輩講師によるセミナーの開催に加えて、「六甲台就職情報センター」の皆さんとの協働強化などを通じて、その接点を更に広げていきたいと思っています。
 「大学は教育・研究、自己研鑽の場である」など種々高邁なご意見もあろうかと思いますが、大多数の現役学生にとって、卒業後の進路は極めて関心の高いテーマであります。そのような想いで、過日、凌霜会本部の2階にあります「六甲台就職情報センター」の皆さんと意見交換の場を設けました。立派な経歴の方々が、後輩達のために汗を流していただいているお話に感銘を受けると同時に、凌霜会として果たすべき役割があることを強く認識した次第で、これからも、意見交換の頻度、内容などを更に高めていきたいと考えています。
 以上のように、昨年来、新法人への移行に向けてその準備に万全を期す過程で、特に東京・大阪両支部の皆さんには、東西両クラブの法人化に関して本部の立場で種々意見を申し上げ、お願いもして参りましたが、是非その背景をご理解いただき、凌霜会活性化に向けて更なる連携強化をよろしくお願い申し上げます。両地区には、一般社団法人凌霜会の窓口として、新定款第3条に定める「従たる事務所」を正式に設置することを考えています。
 公益法人制度改革への現凌霜会としての対応は、時間に追われるなか、いよいよ正念場を迎えます。引き続き関係者全員、移行認可取得に向けて全力を傾注する覚悟でありますので、変わらぬご理解とご支援をお願い申し上げます。