凌霜第403号 2014年10月01日

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凌霜四〇三号目次

◆巻頭エッセー「軍艦島」と「凌霜人」との不思議な「ご縁」    森   榮

◆母校通信                             正司 健一

◆六甲台だより                           鈴木 一水

◆本部事務局だより                一般社団法人凌霜会事務局

 「口座自動引き落とし」「終身会費納入制度」などのお知らせ/

 ご芳志寄附者ご芳名/事務局への寄附者ご芳名/お詫び

◆(公財)六甲台後援会だより(38) (公財)神戸大学六甲台後援会事務局

◆水島銕也先生生誕150年記念事業実行委員会事務局だより

◆凌霜俳壇  凌霜歌壇

◆学園の窓

 如水円清とクリストファー                      中村  保

 日本学術振興会賞を受賞して                   曽我 謙悟

 イノベーションを阻む壁を乗り越えるには             宮尾  学

 六甲台に至る坂道                          樹神 昌弘

◆大学文書史料室から(12)                     野邑理栄子

◆学生の活動から

 平成26年度 第35回神戸大学六甲祭のご案内        相模 祐輔

 体育会陸上競技部の紹介                      茂原 哲也

 文化総部マンドリンクラブの紹介                  岩塚 貴輝

◆六甲台就職情報センターNOW―報・連・相―        浅田 恭正

◆神戸港の発展が神戸大の歴史・伝統の基盤を築く       松熊  忍

◆リレー・随想ひろば

 神戸商業大学豫科 75周年へ                  平田 二郎

 「神五会」卒業60周年記念大会を目指して            鶴  浩一

 謡・ゴルフ・ロータリークラブ                   北谷 泰彦

 母校神戸を後にして                        宮林 慶輔

 私の大学院生活                          田口 修由

◆表紙のことば 穂波夕映え                    松村 琭郎

◆編集後記                              鈴木 一水

<抜粋記事>

巻頭エッセー

「軍艦島」と「凌霜人」との不思議な「ご縁」

                  昭41法 森        榮

       (三菱マテリアル株式会社顧問、元・宇部三菱セメント株式会社社長)

「軍艦島」とは

 明治日本の産業革命遺産として知られる「軍艦島」は、長崎港から南西に約18㎞の洋上に浮かぶ周囲約1㎞の小島で、当時の正式地名は長崎県西彼杵郡高島町端島ですが、三菱が明治23年から閉山までの80余年もの間、最高級原料炭を産出してきた海底炭鉱の島として知られています。この端島は、夕暮れにかすむ頃はるか洋上から眺めると、その姿が、あたかも往時の軍艦「土佐」に似て見えることもあり、大正時代から「軍艦島」と呼ばれるようになったといわれており、端島を「軍艦島」と呼称させていただきます。

初めて見た「軍艦島」

 昭和37年秋、私は東京水産大学(現・東京海洋大学)の4年生として、実習船・神鷹丸に乗船、3週間に亘る東シナ海での漁業実習の帰路、長崎港に入港する1時間程前に「軍艦島」の真横を航行しました。その時、こんな小さな島の中に高層アパート群が林立している景観にびっくりし、思わず目を見張りました。そして、「こんな小さな離島に、よくぞ、こんなに多くの人々が生活できるものだ」と驚愕し、他人事ながら心配したものでした。当時の「軍艦島」には、最盛期で5、000人もの人々が生活しており、小学校、中学校も設立され、ひとつの町を形成していて、人口密度もダントツの世界1として有名でした。

 まさか、その数年後、この「軍艦島」から長崎寄り離島の高島炭鉱に15年近くも勤務するとは、全く夢想だにしなかっただけに、人生、先のことは全く分からないものだと実感しました。

「キューバ危機」が人生の岐路に

 実習船・神鷹丸が長崎に寄港した時、いつもの習慣で航海期間の3週間分の新聞を買い込み、数人でそれを読んでいく中、我々が実習中に、「キューバ危機」なる世界を震撼させた大事件が発生していたことを知り大きなショックを受けました。当時は、人工衛星による電波などなく、外洋へ出てしまえば世の中のニュースから絶縁された生活を余儀なくされていました。これまで、私は何も考えずに、一人前の海の男となって水産業界に就職し、両親に恩返しをするのがわが人生であると単純に考えていましたが、「キューバ危機」ショックもあり、「果たして、それでよいのか」「世の中と絶縁されての人生でよいのか」などと真剣に自問自答するようになりました。結局、翌年3月、東京水産大学を卒業したものの就職せず、両親が反対する中、社会科学系大学への進学を目指し受験勉強に再挑戦することにしました。幸い、半年後の昭和3810月、神戸大学法学部2年後期に学士入学させていただくことができ、両親もやっと矛を収めてくれ、学費の仕送りも再開となり安堵しました。

入社後、「軍艦島」に再会

 昭和41年3月、神戸大学法学部を卒業、三菱鉱業㈱(現・三菱マテリアル㈱)に入社しましたが、その最初の配属先が、「軍艦島」の5㎞長崎寄りに立地する同じ三菱の離島炭鉱の高島炭鉱であったことには驚きました。しかし、有難いことに、高島炭鉱は「軍艦島」も管轄下に置き、三菱発祥の地の一つとして社内でも最右翼の格付けの事業所で、しかも、両炭鉱を統括するトップの高島鉱業所長が、常務取締役の白圡進先輩(昭和12年卒)なる「凌霜人」であったことです。高島炭鉱着任の夜、白圡常務邸にご挨拶に参上したところ、「凌霜の後輩が来た」ということで、大変喜んでいただいた上、「君の奥さんは私が探してやるから、離島勤務だから縁遠くなるなど心配しないで、炭鉱業務に励むよう」との温かいお言葉をもらいました(私事で恐縮ですが、家内は白圡先輩のご紹介で、仲人はゼミの指導教官の法学部長(当時)嘉納孔先生でした)。高島炭鉱と「軍艦島」の両炭鉱のトップに「凌霜人」が就任されていたことに大いなる誇りと責任を感じたものです。こうして「軍艦島」には、私を含めて2人の「凌霜人」が関係することになりました。

 私が入社する2年前の昭和39年、「軍艦島」でガス爆発が発生、三菱は深部区域を水没させることを決断し、これに代わる新しい鉱区として、翌40年「三ツ瀬区域」を開発することとなり採炭を開始しましたが、その時、白圡先輩は事務屋ながら炭鉱の採掘問題にも造詣深く、人望・統率力も抜群で、困難な状況にもめげず見事な陣頭指揮を発揮され、その後の「軍艦島」操業継続と鉱命延長の基盤を創られたといっても過言ではなく、まさに「凌霜人」としての意地を見せていただいたと思います。

忘れ得ぬ稲葉襄先生のお言葉

 この「三ツ瀬区域」開発に関連し忘れ得ないことは、入社した年の初夏、白圡先輩と凌霜の同期の稲葉襄経営学部長(当時)が高島炭鉱を訪問されたことです。その日の夜は、白圡先輩の計らいで由緒ある長崎グラバー邸の別邸として名高い、会社の「倶楽部ハウス」で宴が催され、私も同席させていただきました。白圡先輩が「三ツ瀬開発」の苦労話をされたところ、頷きながら聞いておられた稲葉先生のお顔が一瞬厳しくなり、『今回は、白圡君の頑張りで「軍艦島」は救われたが、数十年後の「軍艦島」の行く末は、森君の双肩にかかっているのだぞ』と言われたものの、私はその趣旨が判らぬまま「はい」と返事をしていました。そして、この稲葉先生のお言葉の趣旨を噛みしめるのは、それから35年後の「軍艦島」の無償譲渡問題の時でした。

再び「軍艦島」と関係する

 こうして私の高島炭鉱での会社生活は、何とかスタートしたものの、いかに最高級原料炭を採掘するといっても、世に言うエネルギー革命には抗することはできず、昭和49年「軍艦島」が閉山、さらに、同61年高島炭鉱閉山も余儀なくされました。平成13年、私は三菱マテリアル㈱常務執行役員九州支店長を拝命、その管轄下に閉山後の「軍艦島」も高島炭鉱も含まれていましたが、27年間も無人島になっていた「軍艦島」について、社内でも、その跡地利用をどうするかが懸案事項として浮上していました。その最中、当時の高島町長より「軍艦島を高島町に無償譲渡してほしい」との申し入れがありました。その狙いは高島町が一旦寄贈を受け、その後の「平成の大合併」により、長崎市高島町の「軍艦島」を「長崎市観光の大きな柱」として開発していきたいので「特段の協力を願いたい」というものでした。平たく言えば、「軍艦島」を高島町に寄贈することで、地元観光開発に寄与してもらいたいという趣旨でしたが、これを管轄する九州支店と高島町との間で、譲渡交渉が始まることとなりました。

 思えば、明治23年以来100年以上に亘り三菱の所有地であった「軍艦島」を、高島町に手放すことは、時価換算で一説には10数億円とも言われる中での無償譲渡でもあり、社内の経理・財務部門からの了解を得るのに相応の苦労がありました。幸い私が15年近くも高島で勤務した経験を発揮し、「軍艦島」を含め高島炭鉱が100年以上もの間、地元でもある長崎市に大変お世話になってきたことに対する思い入れを吐露し、地元に対する最後の恩返しとして、「是非とも、無償譲渡をお願いしたい」という私の切なる思いが、三菱社内の共感を呼び、会社の正式了承を得ることに成功しました。この時、35年前の稲葉先生のお言葉を思い出し、改めてその深い真意を噛みしめました。

 「軍艦島」は、平成17年に長崎市の所有となり、長崎観光資源の新しい目玉と位置付けられ、世界文化遺産登録も視野に入れ、着々と桟橋や見学道路等を整備しています。現在では、年間10万人を超える観光客が訪れているとのことで、本年のゴールデンウイーク中は1万人近い観光客が訪れ、前年対比ではグラバー邸や大浦天主堂等の来訪者を上回っているとのことです。

 白圡進先輩と稲葉先生、そして、私の3人の「凌霜人」のリレーにより、「軍艦島」を通じ地元長崎市に少なからずお役に立ったとすれば、これも不思議な「ご縁」ではないかと思っています。

 

筆者略歴

 昭和15年3月名古屋市生まれ。38年3月東京水産大学(現・東京海洋大学)卒業、41年3月神戸大学法学部卒業後、同年4月三菱鉱業㈱(現・三菱マテリアル㈱)入社。高島炭鉱勤務を経て、本社人事総務関係を歴任、平成13年常務執行役員九州支店長に就任。同16年6月宇部三菱セメント㈱取締役社長就任。現在、三菱マテリアル㈱顧問。